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「いかに太らせるかではなく、いかに4つの胃を健康にするか」尾崎牛生産者・尾崎宗春氏が語るブランド牛の作り方 前編1/2

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尾崎宗春(Muneharu Ozaki)
「株式会社牛肉商尾崎」商主
1960年生まれ。宮崎県出身。高校卒業後、1980年に宮崎県農業試験場肉畜支場に入場。1982年、畜産の勉強のため渡米。1984年に帰国。 1992年「有限会社 尾崎畜産」2012年「株式会社 牛肉商尾崎」を設立。現在、「尾崎牛」は、和牛ブランドとして高い人気を誇っている

質の良い子牛を買いに全国から宮崎にやって来る

堀江貴文(以下、堀江) 今日は牛の話を聞きにやって来ました。尾崎さんは日頃から「宮崎県は牛が財産だ」と言っていますよね。

尾崎宗春(以下、尾崎) ええ。だって日本全国から良い子牛を買いに来ますから。

堀江 なんで、宮崎には良い子牛が多いんですか?

尾崎 ちょっと長い話になるけど、いい?

堀江 はい(笑)。

尾崎 日本では明治になるまで牛を食べる習慣がほとんどなかった。だから、昔から日本の農家にいる牛(和牛)は、ずっと農耕用や運搬用として飼われていたわけです。

堀江 まあ、そうですよね。

尾崎 そして1950年くらいから耕運機が普及してくると、農耕用として使っていた牛がだんだん必要なくなってくる。その頃、和牛は272万頭ほどいて、当時の指導的立場だった人たちが「将来、肉牛にするためにこれらの和牛を改良しよう」と話し合ったんです。で、僕の師匠である黒木法晴さん(元全国和牛登録協会宮崎県支部事務局長)も、その指導者のひとりでした。

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堀江 はい。

尾崎 今、僕らが食べている豚や鶏は、ほとんどが外国から入ってきた品種で、早く太る遺伝子が掛け合わせてある。だから、当時の指導者は「和牛も外国の品種と掛け合わせて、早く太る牛を作ろう」という意見が大半だった。

堀江 普通はそうでしょうね。

尾崎 だけど黒木さんは、「実際に海外の牛肉生産の現場を見てみないとわからないだろうから、俺を海外に派遣してくれ。そして、海外の牛を見て、肉を食べて、それから将来の方向づけを決めてもいいだろう」と主張した。しかし、「早く太る牛を作る」という方針で決まりかけていたので、それは叶わなかった。だから、ひとりで悶々としていた。

堀江 ああ。

尾崎 当時、ヨーロッパに1カ月くらい滞在すると180万円くらいかかったらしいけど、そのお金を黒木さんの奥さんがポンと出したんです。その180万円は奥さんが車(日産ブルーバード)を買おうとして貯めていたヘソクリだった。でも「ブルーバードはいつでも乗れるけど、ヨーロッパに行くのは今しかないでしょ」って言って渡してくれたんだって。

堀江 へー。いい話ですね。

尾崎 黒木さんはヨーロッパを1カ月かけて回り、牛を見て、肉を食べた。するとヨーロッパの牛は、ほとんどが赤身だということがわかった。そこで黒木さんは「日本が海外のマネをして、早く太る赤身の牛を作っても勝てない。それなら今いる272万頭の牛を厳選して、おいしい霜降りの牛肉ができる遺伝子を固めていったほうがいい」と考えた。そして、そのことを指導的立場の人たちにアピールしたけれど、全国の指導者たちはほとんど感心を示さず、早く太る牛に移行しようとした。それに危機感を持った黒木さんは、自分の地元の宮崎県や鹿児島県だけでもいいからと、霜降りと肉質を重視した和牛を作る方向に進んだというわけです。

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堀江 なるほど。

尾崎 おいしい霜降り牛を作るには、どんな種牛が良いのか。当時、一番、霜降りが入っていたのは、兵庫県但馬地方にいる但馬牛だった。

堀江 それはなぜですか?

尾崎 但馬地方は山間部で田畑が小さから、小回りの効く頭の良い牛ばかりを残していました。そしてこの牛達を県外に出さないようにしていました。これを閉鎖育種というんだけど、その但馬牛の肉質を見たら霜降りだった。調教しやすい頭の良い牛がたまたま霜降りの遺伝子を持っていたということ。

堀江 たまたまなんだ。

尾崎 それで黒木さんは但馬から種牛を買ってきて、母牛には鳥取県気高地方の牛を入れた。なぜ、気高地方の牛にしたかというと「種つきが良い」「子育て上手」「ミルクを良く出す」という遺伝子を持っていたから。で、その母牛を宮崎県や鹿児島県の農家に置いて、但馬から種牛を買ってきて人工受精をしていった。

堀江 へー。

尾崎 すると、ちょうどいいバランスの肉質の牛ができるようになって、宮崎県に全国から子牛を買いに来るようになったんです。

堀江 そして逆に、今では霜降りの肉が海外でも評価され始めていますよね。

尾崎 そうですね。海外には霜降りの肉はほとんどありませんからね。

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